第9話 聖女
ガヴェニアの西にある、打ち捨てられた砦。それはかつて、この国そのものが、シルヴェリアによって西への防壁として作られたことを物語っている。だがそれはもはや、歴史の遺物であった。防衛と牽制の拠点の一つとして機能していたのは、伝承の時代のことである。王都の支配が揺るぎないものとなってからは、久しくその存在意義を失っていた。
そんな砦が今、よみがえったように活気を取り戻している。
「シーザが戻ったぞ!」
砦の入り口には、武装した男たちが集まっていた。彼らの多くは、奴隷剣闘士であった。
帰還した黒髪の剣士―シーザは、剣闘士の一人に聞いた。
「どのくらい集まった? けが人は?」
「あれから百ちょっとだ。全部で千二、三百ってとこだな。けが人は百もいない。
追っ手は?」
「いや。兵士たちは皆中央に集まっている」
「そうか。 よしッ、門を閉めるぞ!」
数人の剣闘士たちが、門へ駆けて行った。
続いてその後ろから、パタパタと、かわいらしく走ってくる者たちがいた。
「ディムカ!」
「ディムカー」
「おう、お前たちいい子で待ってたか」
黒髪の剣闘士の横に建っていた少年が、かがんで大きく手を広げ、駆け寄ってきた子どもたちを抱きしめた。
その腕の中で五、六歳の子どもたちは泣き出し、十歳前後の子どもたちは、その後ろで立ってこらえながらも、涙ぐんでいた。
「ディムカが心配だったよう」
「ははは、俺がやられるわけないじゃないか。悪いやつはみーんな、俺とシーザでやっつけてきたぞ!」
そして彼らの後ろで、レフィルはその様子をじっとみつめていた。
すると、テールがレフィルの肩に手を置き、黒髪の剣闘士に話しかけた。
「あの……この子もけがしているの。手当てをしてもいいかしら」
「ああ。上へいくといい」
「ありがとう。さあ、レフィル」
テールがレフィルの手を引き、奥へ進もうとした時 、
「おい! そいつらもここへ入れるのか」
奥にいた剣闘士の一人が言った。
テールはレフィルを背中にかばうように、立ち止まった。
シーザは黙ったまま、叫んだ男の方を見た。男は苛立ったように、シーザに言った。
「その女、どうみてもどこかの騎士じゃねえか。後ろのガキを、誰かの命令を守るみたいにかばってるぜ。
街へ戻るって飛び出したときも、シーザがディムカを探しに行くって言うから誰も止めなかったがな 王都かクレスターかは知らないが、本国と通じて攻め込まれたら、俺たちは終わりだぞ!」
シーザは言い終わった男を厳しくにらんだ。
だが、テールは微笑みすら浮かべ、やんわりと言った。
「おっしゃる通りです。わたしは王都の騎士でした」
剣闘士たちが、ざわめき始める。しかしテールは、毅然と声を張って続けた。
「でも、もう国を追われて、出てきたのです。その道中で奴隷狩りに遭い、闘技場に囚われていました。
この子は大切な友人だから守っているの。この子とわたしの命を救ってくださった皆さまには、感謝しています。ですから、恩人である皆さまがおっしゃるのなら、その通りにします。出て行けというのなら、言葉のままに。
けれどこの子の手当てだけ、しばしの間させてもらえないでしょうか」
テールは胸に手をあて、深々と頭を下げた。
剣闘士たちは、もう誰も口を開いてはいなかった。怒鳴った男ですら、戸惑って言うべき言葉を探している。
そこへ、シーザの厳しい声が響いた。
「好きにするがいい」
黙ったまま、男たちはじっと彼を見つめた。そのまま、彼は続けた。
「俺たちは今夜、城を攻める」
「おい! シーザ!」
男たちが一気にざわめき始めた。するとシーザは剣を抜き、テールの胸へ向けて、ぴたりと止めた。
再び沈黙が戻った。テールは微動だにせず、シーザの厳しい目をじっと見つめていた。
シーザは再び、口を開いた。
「我らの悲願、自由を取り戻すためだ。
お前がそれを脅かすというのなら、俺はお前を斬る」
シーザの目には、暗い怒りの炎が燃えていた。
テールは震えそうになる息を飲み込んでから、冷静にその瞳を見つめ返し、答えた。
「先ほども申したとおり、わたしはもうどこの騎士でもありません。どうしても信じられぬと言うなら、斬るといいわ」
シーザはテールをじっと見て、やがて目を閉じると、剣を納めた。
「いいだろう。行け」
「 感謝するわ」
テールは素早く一礼し、レフィルの手をとって進んだ。
レフィルは、その手が汗ばんでいるのに気づいた。