第8話 西へ


 その時  

「大変だーッ!」

 遠くから、大きな叫び声とともに、警鐘の音が鳴り響いた。
 

「何だ……?」
 観客たちは慌てて、場外を見回し始めた。
 すると、観客席に兵士が叫びながら駆け込んできた。
「反乱だ! 奴隷どもが反乱を起こした! 中央広場周辺の店が破壊されている!」
 同時に、観客の一人が立ち上がって、空を指し示した。
「火だ! 火が上がっている!」

 たちまち観客席は、恐慌に飲み込まれた。
「店が破壊されているのか!」
「ああ  家が、財産が心配だ」
「何を呆けている! さっさと行くぞ!」
 観客も、警備兵も慌てふためき、たちまち外へ駆け出していった。

 そして残されたのは、囲いの内側の、二人だけだった。
 レフィルはその騒ぎにも顔を上げず、未だ動かずにいた。
 男は空になった客席から視線を戻して、冷たい笑いを浮かべた。
「へっ、残念だったな……誰にも見られずに殺されるんだな」
 近づいてくる足音に、ようやく、ゆっくりとレフィルは顔を上げた。
 そこには、振り上げられた刃が、鈍くきらめくのが見えた。

 だが  
 それは少女の上にではなく、地面に落ちた。

「うあ……」
 
 落ちた剣の上に、さらに男の体が崩れ落ちる。
 その背には、深々と短剣が刺さっていた。

 そしてその後ろには、一人の少年が立っていた。
 少年はレフィルに駆け寄り、手を伸ばした。大きな黒い瞳が、レフィルを覗き込む。
「走れるか?」
 見開かれた丸い瞳に向かって  少年は薄い唇の端を持ち上げ、微笑んだ。
 すると、レフィルを捕らえていた重苦しい恐怖が、消え去った。
「……あ」
 レフィルはゆっくりと石塁から下り、何か言おうと、乾いた唇をこじ開けた。
 だが少年はすぐに厳しい表情になり、叫んだ。
「時間がない! 早く!」
「え  !?」
 少年はレフィルの手を素早く掴むと、走り出した。
 
 闘技場にはもはや、生きた人間は誰もいなかった。レフィルが通ってきた扉は無残に壊され、開いていた。
 レフィルは少年に手を引かれるままに、建物の中を走り抜けた。
 建物の外に出ると、煙の匂いがした。遠くから騒ぎの声も聞こえてくる。
  まだ走れるな?」
 少年は一度だけ心配そうに振り返り、レフィルが頷くのを確かめると、煙の流れてくるのとは逆の方に向かって走った。
 少年は頭に赤い布を巻いており、結び目の所から束ねられた細い黒髪がのぞいていた。それが尻尾のように揺れているのを、レフィルは走りながら見ていた。

「そうだ  !」 
 にわかに、レフィルが立ち止まった。
「テール、テールがまだ……」
 すると少年は再び振り返り、レフィルの両肩を掴んだ。
「大丈夫だ! 闘技場に囚われてた人たちはシーザたちが助けたはずだ!」
「シーザって?」
「いいから、きっと会えるから、今は来い!」
「ちょっと!」
 少年は再びレフィルの手を引き、走り出した。

 ガヴェニアの中央広場は、城の南に位置する。広場には露天の市場が広がり、その周囲には商店が立ち並んでいる。
 その中央広場を貫く通りには今、あちこちに火の手が上がり、切り倒された兵士や商人たちの死体があふれていた。それを踏みつけて走るのは、ぼろぼろの服に身を包んだ奴隷たちであった。そしてその手には、奪った剣や、手近にあった鉈などの刃物がきらめいていた。
「西へ  西へ!」
 彼らは互いに叫び合いながら、一方向に走っていた。長い間虐げられて虚ろだったその瞳には、今、炎が宿っている。

 一方、中央広場から伸びた通りを南下していくと、立ち並ぶ建物は次第に粗末なものになり、店も奴隷や女たちを売るようなものが多くなっていく。その先にあるのが、闘技場であった。
 そのあたりを、少年と少女はひた走っていた。走りながら少年は、周囲の様子に舌を巻いた。
「だいぶ派手にやったもんだなあ……」
 そこはさながら、嵐が過ぎ去ったあとのようだった。
 もともと綺麗な建物ではなかったが、立ち並ぶ商店はみな、見るも無残に破壊されていた。道には燻った煙が流れ込み、こぼれた血が生々しい。もはやどこにも人気もなく、闘技場の客たちも兵士たちも、皆中央広場の方へ向かったようであった。
「逃げる奴隷を追うよりか、逃げない財産を拾い集めとこうってとこか。ま、俺たちには幸いだ」
「ねぇってば! 何をぶつぶつ言ってるの!」
 少年は、後ろをちらりと振り返った。
「疲れたか?」
「違うよ! どこまで行くのって聞いてるの!」
「ああ? もうちょっとだから辛抱しろって! おぶって欲しいのか?」
「違うってば!」
 叫び合いながら走る二人だが、二人ともたいして息があがっていないのが不思議だった。
 だが、突然、少年が立ち止まった。
「きゃあっ」
 勢いあまってレフィルは少年の背にぶつかる。少年はそれをかばうように、受け止めた。
  ちっ!」
 少年の前には、立ちはだかる男が四人。紋章つきの兜とマントは、町の警備兵のようだった。中央広場へ向かわずに、さぼっていたらしい。

 兵士の一人がにやにやと笑いながら言った。
「おい、女を置いていけば見逃してやってもいいぞ」
 その言葉も嫌らしい目つきも、闘技場の男たちと変わるところがなかった。
「刃向かう奴隷どもは皆殺しにしろって命令なんだがなあ。全員殺しては、商売上がったりじゃないか」
「仕事さぼって小金集めか。お前らが考えそうなことだな」
 少年は苦々しく言うと、腰の剣を抜いた。
  馬鹿なガキだ」
 警備兵たちも一斉に剣を抜いた。
 少年は少女を背中にかばったまま、兵士たちをじっとにらみつけた。
「舐めやがって!」
 だが、真ん中の兵士が切りかかろうとした時だった。
「お、おい!」
 一人が、背後から近づく蹄の音に気づいて、振り返った。
 しかしそれは、すでに遅く  
「うわああああっ」
 疾風のように現れた一騎が、それを切り伏せて駆け抜けた。
「なんてタイミングだ!」
 歓喜する少年の前に、その一騎は止まった。
 馬上からひらりと飛び降りたのは、長い黒髪を束ねた男だった。
「持ってろ」左手の手綱を少年に押し付ける。
「おぉい!」
 興奮した馬に引きずられそうになる少年を背後に、男は血に濡れた剣を構えた。
 たじろく兵士たちを刺し貫くその視線に、レフィルははっとした。だがその瞬間にはもう、男は素早く兵士たちの懐に飛び込み、一人、二人と切り伏せていた。

 そこへさらに、もう一騎が駆け込んできた。細剣がひらめき、兵士の喉を突く。
 そのまま、立ち尽くしていたレフィルの方へ馬首をめぐらせ、手を伸ばしたのは  
「テール!」
「乗って!」
 レフィルは、信頼する背中の後ろに飛び乗った。
「しっかりつかまっていて!」
 テールは、叫び、勢いよく馬を駆った。

 するとちょうど、男が最後の兵士を切り伏せたところだった。
 男は、剣の血を払って鞘に納めると、ようやく馬をなだめて騎乗できた少年のところに駆け寄った。
「急ぐぞ。皆が待っている」
「あぁ、すまなかったな」
 少年は剣士を乗せると、馬のわき腹を蹴って、少女たちを追った。

「あーあ、すっかりカッコイイところ持っていかれちまったなあー」
「おい、急ぐんだ」
「はいはーいっと」
 少年は馬を急がせる。舌を噛みそうなほどだったが、口は閉じなかった。
「にしても、あの子はどこの子だろうね?」
  見ればわかるだろう」
「まあね、そうだけど……砦に連れてっても平気か?」
「後ろの女は怪我をしている」
「ああ、そうだった、手当てしてやらなくちゃな。
 おーい待てよっ! 俺たちが先に入らなきゃ、お前ら射殺されるぞっ!」
 少年はようやく追いつくことができ、少女たちに向かって叫んだ。

 煙の上る町は、ははるか背後にある。
 やがて草原のむこうに、古びた小さな砦が見えてきた。 


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