第17話 再会
それは、小さくて暖かな そして懐かしい、森の中の小屋だった。
少女は賑やかな鳥の声と、扉の隙間からもれる光によって目を覚ました。そしてまぶしい光に目を細めると、慌てて小屋を飛び出した。この明るさならばもうすでに、翁はかなり遠くまで行ってしまっただろう。
「待ってーじいちゃん!」
毎朝通っているところだから、草が生い茂る中にうっすらと道が出来ている。少女は息を弾ませて、草に隠れた木の根を軽やかに飛び越えながら、走った。
朝の森の空気は、しっとりと水を含んで髪や肌を濡らす。しかし、今日はだんだんと進むうちに、それが重く感じられるようになり、霧が出始めてきた。朝日の色が、白く溶けてにじんでいく。
やがて、霧の中に翁の後ろ姿が見えてきた。
「じいちゃーん!」
呼ぶと、翁は振り返った。
「レフィル」
翁はなぜか、ひどく悲しそうな顔をして、少女の名を呟いた。
「じいちゃん?」
「お前は わしの言ったことを覚えておかなんだな」
「じいちゃん、どうしたの? アッ!」
気づくと、彼女の手にはしっかりと弓矢が握られており、そして、血まみれだった。
「どうして……!?」
さらに、少女の周りには、喉や顔面に矢を突き立てられた屍が、いくつも横たわっていた。
翁はそれを一瞥し、続けた。
「王都の人間と関わってはならぬと、あれほど言ったのに 」
「違う、違うの! 待って じいちゃん!」
翁は少女の叫びなどまるで聞こえぬかのように、背を向けて、霧の向こうへと去っていった。
追いかけようと思ったが、脚の力が抜け、少女はその場に崩れ落ちた。
「うっ……う…じいちゃん、じいちゃん、待って! 行かないで! ごめんなさい、ごめんなさい!」
その後姿を見失わないように、溢れる涙を、血のついた手で拭った。
やがて、今度は翁の消えた方から、蹄の音が響いてきた。
霧の中から現れたのは、一人の騎士だった。
よく知った亜麻色の髪に、濃紺のマント。手には立派な長槍を持っている。
「!」
ところが、彼女もまた、血にまみれていた。むしろ彼女の方がひどく、手だけではなく、顔にまで血しぶきを浴びたように、べったりと赤が染みが付いていた。
「何を泣いているの?」
呟きかけた彼女の名が、喉の奥で止まった。いつも凛としていた懐かしいその声が、驚くほど冷たく、軽蔑の響きを持って投げかけられたからであった。
「わたしは止めたのに、お前は自分から戦いに行ったのじゃないか。ほら。だから二人ともこんなになってしまった」
彼女は肩をすくめ、血だらけの手のひらをレフィルの目の前に出す。
それから、ぞっとするような残忍な笑いを浮かべて、言った。
「まぁいい。だけどわたしを裏切ったら、許さない」
「 !」
そして彼女は、再び馬を駆って霧の奥へ戻っていった。
一人、霧の中に取り残されたレフィルは、声も涙も出ないまま、ただ震えていた。
自分の手で肩を抱くが、そこにはおびただしい量の血がついており、吐き気を催すような血の匂いに包まれる。
(じいちゃん……アルディ……)
行ってしまった二人のことが頭を離れず、恐怖で押しつぶされそうだった。
そしてさらに 再び、あの声が聞こえてくる。
(殺せ!)
「 誰なの?」
(殺せ! 殺せ! 殺せ!)
「誰? お願い、やめて!」
(殺せ! 殺せ! 殺せ!)
( ふふ。おろかな娘)
(殺せ! 殺せ! )
( これは、お前自身の声だのに)
「嘘だ!」
( 嘘じゃない。ほら、耳を澄ましてごらん)
(殺せ! 殺せ! 殺せ!)
「違う! あたしじゃない!」
(殺せ! 殺せ!)
(違う!)
(殺せ! 殺せ!)
(やめて! お願い!)
(殺せ!)
(殺せ やめて!)
(殺せ!)
「やめて!」
。
*
「レフィル!」
悪夢を引き裂いたのは、凛と響くその声だった。
「 レフィル! よかった、もう大丈夫だ」
「……アルディ?」
気がつくと、そこには親友の笑顔があった。
その琥珀色の瞳は、ほんのり潤んではいたけれど、きちんと輝いて、まっすぐにこちらを見つめていた。
それが嬉しくて、レフィルの目から、大粒の涙がこぼれ始める。
「ほんとに、ほんとの、アルディなの?」
アルディはもらい泣きしそうになるのを笑ってごまかしながら、小さな額をこづいた。
「何言ってるの? 夢でも見てた?」
「……うん」
すると反対側から、大きくて大げさな調子の声が降ってきた。
「まったく、みんながこんなに心配しながら待ってたのに! のん気に夢見てたって?」
それにかぶさって、やわらかく、穏やかな声が響く。
「まぁ、レフィルだって、一生懸命がんばってたのよ。でなければこんなに早く目は覚まさなかったはずだわ」
「ディムカ……テール……」
大好きな友人たちに囲まれて、レフィルはとうとう、しゃくりあげ始めた。
「おいおいおい、泣き虫だなあ。その歳になって怖い夢でも見たってのか?」
「うう……うん! そうなの、ほんとにとても怖い夢を見たの、ディムカあ! うわーん!」
本気で泣きつかれてしまい、弱り果てたディムカは、横目でテールを訴えるように見た。だが、彼女はくすくす笑うばかりで助けようとしない。
おかげでディムカはレフィルが泣き止んで手を離してくれるまで、その場から一歩も動くことが出来なかった。
ようやくレフィルが泣き止んで解放されると、ディムカはその頭にぽんと手をやって、
「あんまり泣くと傷が開くぞ」
と目も合わさずに言い、さっさと部屋を出て行ってしまった。
「ありがとう」
部屋を出るディムカが聞けたかどうか レフィルはそっと呟いた。
それから、レフィルは傍らの二人にも、そっと言った。
「心配してくれて、本当にありがとう。
……それから、ごめんなさい」
するとテールとアルディは困ったように顔を見合わせ、やがて、アルディが言った。
「どうして謝るの?」
「だって 」
レフィルの声は、再び泣き出しそうに震えた。
「だって、二人は最初から、あたしが王都に行ったときからずっとあたしのこと守ってくれてたのに、あたしはそれを全然わかってなくて、二人に迷惑かけてばっかりで……
それと、あ、あたし、アルディと別れる前も、アルディにひどいこと言って !」
アルディは首を振って、穏やかに言った。
「いいんだ。わたしもレフィルの気持ちをきちんと聞かずに、悪かったと思ってる」
「でも、でも、あたしがひどいこと言ったのにアルディは自分だけ残って、あたしを逃がしてくれて……あたし、あたしずっと怖かったの。アルディに謝れないまま、もう会えないんじゃないかって、アルディ、ごめんなさい。ごめんなさい……!」
「レフィル……」
レフィルは再び、しゃくりあげ始めた。
「もういいから。わたしは怒ってなんかないよ。……ほら、ディムカの言ったとおり、泣くと傷によくない」
「そうよレフィル。さ、まだ眠いでしょう。もう少し寝ていていいのよ。
大丈夫。もう怖い夢を見ないようにそばにいてあげるわ」
レフィルはまるで、両親にあやされる幼子のように、にっこりと笑った。
「二人とも……ありがとう」
彼女が再び眠りに落ちるまで、そう長くはかからなかった。二人に見守られながら、今度は穏やかなまどろみが少女を包んでいった。
二人は、それを見届けてからそっと部屋を出た。
ガヴェニア解放の朝から、丸一日が過ぎたあとの昼さがり。
今の彼女らに最も必要なのは、ほんのしばしの、休息なのであった。