番外編1 約束の森(1)
「ただいま戻りました!」
王都シルヴェリアの中心部に近くにある、静かな屋敷。
そこへ頬を上気させて駆け込んできたのは 、
「お帰りなさい、アルディ。父上ならまだですよ」
王国騎士団長アルフレッド・バーネスタの一人娘、アルディであった。
「まぁ、髪を乱して。ずいぶん慌てて走ってきたのね」
それを穏やかな笑顔で出迎えた女性 彼女の母は、肩のあたりで切りそろえられた髪を、優しくなでて直してやる。
「父上がケフィラーから戻られると聞いたものだから」
「ええ。もうすぐお着きになるそうよ。さあ、早く着替えてらっしゃい!」
「 はい!」
輝くような琥珀の瞳と亜麻色の髪が美しい、背の高い、中性的な雰囲気の少女である。
同じ年頃の少女たちに比べればやや寡黙で、甘い華やかさはなかったかもしれないが、騎士たちの長である父に似て誠実であり、芯の強い性格として知られていた。
尊敬する父と、心優しい母のもとで健やかに暮らす彼女ではあったが 、
そんな彼女にも、悩みはあった。
*
「そうなのですか。わかりました」
待ちくたびれた彼女のもとに現れたのは、父ではなく、その使者であった。
予定が変更になり、帰還は明日の午後になるという。
(近頃ケフィラーへ行かれることが多くなっている。野盗の討伐とお聞きしたけれど、そんなに数がいるのかしら……)
敬礼する騎士たちを母と共に丁寧に送り出し、アルディは考えた。
(そうだ 彼らにもう少し詳しく聞いてみよう)
「母上、すぐ戻ります!」
彼女はそう言って飛び出し、使者たちを追いかけた。
待って 、と使者たちに声をかけようとしたときだった。
「しかし、お美しくなったなあ」
彼らの話す声を聞いて、彼女の足はピタリと止まった。
「アルディさまだよ」
自分のことを話している 。そう気づいて、聞きたくない、と思ったけれど、踵を返す前に、騎士たちはじゅうぶんに聞こえてくる声の大きさで続けた。
「もう十六だったか 彼女と結婚すれば、次期騎士団長も夢じゃない、ってところか!」
「馬鹿言え! お前なんかがなったら、この国は終わりだ!」
「なんだよ! 志は高く持つべきだろう!」
ふざけ合いながら去っていく騎士たちを、アルディは黙って見送った。
こういう話を聞くのは初めてではない。むしろもう慣れていた。
近頃は、槍試合などをすると、対戦相手である貴族の子弟たちから、揶揄の言葉をかけられるようになった。
けれども、そんな時こそ、彼女は心の中で静かに闘志を燃やす。
悔しさではない、怒りでもない。ただ、誰にも負けたくない、という意志が、彼女の中には幼い頃からあった。
そんな時、決まって彼女は、心の中で繰り返しつぶやくのであった。
( わたしは、父上の子なんだ)
だがその言葉は、彼女にとって糧でもあり、枷でもあったのかもしれない。
やがて騎士たちの姿が見えなくなると、アルディは走って屋敷へと戻った。
「母上!?」
屋敷へ戻ると、母が青ざめた顔をして玄関にかがみ込んでいた。
「母上、母上、大丈夫ですか 誰か!誰か!」
「大丈夫よ、アルディ。ちょっとめまいがしただけなの」
駆けつけた侍従と二人で体を支えながら、寝室へと連れて行く。
「母上、父上ならきっとご無事ですよ。明日には必ず帰って来てくださいます。
だから、心配しないで。ゆっくり休んでください」
母を元気付けるつもりが、まるで自分に言い聞かせるかのようであった。
父の留守の間、体の弱い母を守るのは自分の役目だ 。
これも、彼女の心の中にずっと存在してきた、意志なのであった。
*
そして次の日、今度こそ父は帰ってきた。
久しぶりに親子三人で食事をしたあと、彼女は父にそっと話しかけた。
「父上、お疲れのところ申し訳ありませんが、少しお聞きしたいことがあります」
すると、父は頷いた。
「そうか。ちょうど、わたしもお前に話したいことがあるのだ。このあと話そう」
そして、母が先に休んでから、父娘は向かい合った。
「父上、今回の遠征は、危険はありませんでしたか。」
「ああ。いつもの通りだ。助けた旅人を送っていたら遅くなってしまった。お前にもずいぶん心配をかけて、すまなかったな」
「いいえ。ご無事でなによりです。
けれど父上、最近ずいぶんケフィラーに行かれることが多くなって、もしかして 」
すると父は、朗らかに笑って言った。
「なんだ、聞きたいこととはそんなことか。お前にも母の心配性がうつったようだな。
大事ない、ただの野盗だ。王都には危険は及ばぬよ。そのための我々だ」
「そうですか」
アルディは父の頼もしい笑顔に、頷いた。
「父上の、お話とは?」
そうたずねると、父は、少し困ったような顔をして、言いにくそうに話し始めた。
「ああ……実はな。ロデリックが お前も会ったことはあるだろう」
「はい。ロデリック卿は父上の最も信頼される、王国騎士団の副団長でいらっしゃいます」
「ああ、そうだ。 あやつには二十になる甥がいてだな」
「はい」
「……その、お前がいやでなければなのだが…」
「 父上?」
父は、二、三度咳払いをしてから続けた。
「お前をくれないか、と言っているのだよ」
アルディは、無言でじっと父を見ていた。
すると父は、優しい目でそれを見返しながら、言った。
「もう一度言うが、お前が、いやでなければ、だ。
よいか、アルディ、お前ももう十六だ。立派な大人なのだよ。まわりからいろいろと言われることもあろうが それは大人として当然のことなのだ」
「はい」
表情を固くして頷く娘に、父は微笑みかけてから、ゆっくりと言った。
「だが、わたしも、お前の母も、いつもお前の幸せを願っているよ これだけは信じてくれ」
「……ありがとうございます」
父の慈愛に満ちた目を、娘はしっかりと見返した。
すると、父はもう一度穏やかに微笑んだ。
「なに、急ぐことはない。また今度、母と三人で、ゆっくり話そう」
「 はい、父上」
そうして、アルディは席を外す父を見送った後、再びその場に座り込んで、じっと考え込んだ。
その表情は、微笑んでいるようにも、泣き出しそうにも見えた。
(父上は 優しい。母上も。
本当にわたしの幸せを願ってくださっている。わたしの 幸せ、を)
幼い頃から、男の子に混じって馬に乗ったり、剣や槍の稽古をしたりする娘の姿を見て、さすがは私たちの子だ、と微笑んでくれていた。
女のくせに父のまねばかりして、などという周囲の陰口に聞こえない振りをしてきてくれた。
だが今、遠征に出る父を心配する母と、病弱な母を心配して遠征に出る父の間で 自分は一体何をしているのだろう。
(わたしは、父上と母上の優しさに甘えているだけなのかもしれない)
彼女はその晩、同じことばかりを繰り返し考えていた。
*
だが、それからまたしばらく、三人で過ごす晩はなくなった。
(ケフィラーで盗賊団の根城がみつかったらしい)
(それでまた遠征に?)
(今回はずいぶん大勢で行ったな)
(ああ。長くかかるかもしれん)
そして、悪いこととは重なるもので 、
アルディの母も、すっかり具合を悪くして、寝込んでしまった。
「母上は?」
「お静かに、アルディさま。ようやくお休みになられましたところで」
アルディは、母の部屋に入ろうとしたところを侍従に止められた。
廊下の隅へ下がってから、声をひそめて聞く。
「熱は?」
「少し下がられましたけれど……ずいぶん苦しそうに咳をされます」
「そうか……薬師は来てくれたの?」
「はい、お薬をくださいましたが……それは以前から長いことお飲みになられているもので、体が慣れてしまっていて、あまり効果は期待できないとのことなのです。
本当は前回いただいた別の薬がよいそうなのですが、それはケフィラーでしか手に入らないのだそうです。ところが今は、ご存知の通り、戦いが多くなっておりますから、ケフィラーからの行商人も来られないとのことで……」
「そんな 」
「ああ、戦いが早く終わって、旦那様も戻られればよいのですが……」
「それは、そうだけれど」
このまま戦いが終わるのを待っているしかないのか 。
アルディは悔しさを噛み締めながら、考えた。
「その薬って……!」
そうして、ふと思い出した。
「あ、アルディさま、どちらへ?」
「母上が目を覚まされたら、心配しないで、すぐ戻りますと伝えておいて!」
アルディはそう言って、家を飛び出していった。